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STORY

KFは、何故ゆったりとしたシャツを作ったのか?第2話

80年代後半、イタリアンブランドとアメリカの古着に夢中になっていた。正確には、アルマーニのファクトリーブランドとアメリカンヴィンテージという組み合わせ。
当時の記憶や記録、こじつけや推測を絡めながら書いてみます。

第1話はこちら

80年代、つづき

同じタイミングか、少しずれたタイミングだったのか?米ラルフローレンを80年代の途中?まで支えていた、アメリカ国内の縫製工場のシャツブランドや、トラウザーブランドほかラルフローレン絡みのアメリカンファクトリーブランドが日本に上陸。
この時は並行輸入か正規輸入品だったのかは分からないけど、第1話に書いたアルマーニの縫製工場のファクトリーブランドの流れと似ている。

勿論、マーケットでの謳い文句は『〇〇〇の〇〇〇を作っていた工場だから』。
という事は安心感+価格も割安で売れないわけがなかったと思う。当時リアルタイムで販売されていた先輩方いかがでしょう?
自分もそんな謳い文句にめっぽう弱かった。

当時から現在に至るまで、海外ブランドが持て囃されない時代は少なかったのではなかろうか。

日本のアパレルマーケットの中で、イタリアンブランドもアメリカンブランドも、原産国の問題や為替の問題で売れ行きの波はあったかもしれないが、海外ブランドが消えてなくなる事は少なかったように思う。ライセンス生産品の影響、ファッション誌の影響もあったのかもしれないし、日本人の海外ブランド志向、特にアメリカ服とイタリア服びいきがそうさせたのかもしれない。

海外ブランドの「2重構造」(ブランドと工場ブランド)という側面も興味深い。

自分の偏見を押し通すためにここでは、イギリス服、フランス服の話は遠ざけておこう。

アメリカンブランドは綿製品・ニットに関しては中国をはじめとするアジア圏での生産がメインだった。
ネクタイやスカーフなどシルク素材やシルク製品、スーツのウール素材やウール製品に関しては、良い職人が多く、為替の影響?もあって比較的安い単価で輸入出来たからか、供給元としてイタリアが重宝される時代に突入。

イタリアは国の産業として繊維業をバックアップとしていたため、フランスやアメリカンブランドの生産拠点としての役割を果たしていた事を後になって知った。

80年代の日本のバブルは、世界のアパレル産業にも少なからず影響を与えていたのかは?だが、自国のアパレル産業には大きな影響をあたえていたはず。
当時のヨーロッパは経済低成長時代といわれていたにも関わらず、多種多様な面白い生地やゴージャスな生地が溢れかえっていたように思う。
オートクチュールは勿論のこと、世界のデザイナーのプレタポルテ(ready to wear)コレクションはいつも華やいでいた。

そういう海外からの影響もありながら国内ブランドも勢いを増し、前衛的なモノ作りから様々な生地やスタイルが発表されていた。
好景気に支えられながら需要と供給が上向いていく時代だったのだと思う。

「ファッション通信」というTV番組と本屋の洋書コーナーが情報源だった自分にはそんな風に映っていた。

2000年代に入り、前職で名古屋のある繊維会社の資料室で80年代日本とヨーロッパで企画された面白い素材を色々と拝見させていただいたことがあったが、2000年代は、そのような生地(バブリーでゴージャス、幅広い色展開)が開発される勢いや、大きな流れを感じることはなかった。

時代がそのような生地を必要としていなかったと言えばそれまでなのかもしれないし、自分が知らなかっただけかもしれない。

50年代、同じく好景気に沸いたアメリカ

そんな特殊な好景気が繊維業にも大きな影響を与えていたであろう、もう一つの時期が戦後のアメリカだとこじつけてみた。
好景気によって中流階級の生活が豊かになるにつれて産業も活気を帯び、繊維業界もその恩恵を多大に受けていたと考える。

そうすると、当然自国で生産する素材開発が進んだり、製品のクオリティーが上がっていくだろう。それがマーケットに行き渡り消費もさらに上向く。
消費が上向けばさらに供給に力が入るという好景気のスパイラル。

第1話に書いた、イタリアの生地ブランドや生地会社名が、イタリアのアパレルブランドの広告に記載されていたような事が既に50年代のアメリカでは行われていた。アメリカの場合は内需が目的で、イタリアの場合は海外需要を意識していたのかもしれない。

生地メーカーとブランドがタッグを組み、マーケットにコマーシャルしていくという手法は50年代にアメリカで生まれ、80年代のイタリアでもその手法がとられていたよう。
50年代だと、マクレガー社の広告にデュポン社のオーロンや、綿製品にはゲイリーアンドロード社。そして80年代のアルマーニ社の広告ではPECCI(ペッチ)やTORELLO VIERA(トレロビエラ)といった感じ。

50年代のマクレガー社の広告

と、ここで肝心なマクレガー社の広告を確認するが、50年代の広告からデュポン社やゲイリーアンドロード社の表記を探し出す事が出来なかった。60年代の広告には記載があったので写真を載せておくが、完全な思い違いだった事が発覚......。
ゲイリーアンドロード社の文字が見える60年代の広告

54年の『ESQUIRE』。デュポン社やタロン社は独自の広告を出していた

広告の関連性がズレていてトーンダウンしたけど、大きく50年代と80年代のメンズスタイルの共通点として、男性を感じさせるデザインがあると思っている。特にトップスの肩幅とトラウザーの深い股上とゆったりとしたワタリ幅は、全くのコピーとは言わないまでも明らかに時代の豊かさや誇張された、誇張したいスタイルを象徴していたのだと思う。

ファッション史の中で戦争が服を変えたという記述をたまにみかけるが、ほとんどがアメリカの軍服に関して。素材や付属品の開発は命を守るという大義名分と軍需産業の利益に大きく関連していただろうし、その後のマーケットへの波及効果も多大だった筈。

戦争というピリオドが80年代の経済戦争というピリオドに代わり、繊維業とファッションにもたらした共通点をこじつけてみると、勝戦国アメリカが牽引した50年代と日本が経済バブルだった80年代に幾つかの関連性を妄想できる。

自分自身においては、インポートウェアやファッションに夢中になり始めた80年代と、前職で少しだけ知る事ができたアメリカの50年代。
このピリオドを自分のファッション思想の一部として意識するようになっていた。
勿論途中の段階ではイギリスの洗礼やフランスの洗礼を少なからず受けているのでそれはそれでややこしいが。
『80年代のアルマーニの服って、50年代にグレゴリーペックが着ていたスーツとおんなじだよね』と話してくれたある先輩の言葉が鋭すぎた。

余談

アルマーニが衣装を担当した事で知られている映画『アメリカンジゴロ』と『アンタッチャブル』。
『アメリカンジゴロ』は、1980年に公開されているので、実際には70年代中から後半のロサンゼルス、ビバリーヒルズ界隈でのお話。

主人公の着用する服は、アルマーニの代名詞となるゆったりとしたシルエットとは程遠い印象。
少しだけシャープでエレガントな雰囲気は、ミラノのトラディショナル感の延長線上にあったのかな?
その後のゆったりとしたスタイルこそが、アンチトラディショナルでありながら、クラッシックアメリカンやミリタリーウェアにインスピレーションを受けたアルマーニの世界なのかもしれない。

先日、神保町Magnifさんで偶然発見した70年代後半のアルマーニ関連のページには生地ブランドの記載は無く、下請け工場なのかコラボレーションなのか?専属デザイナーのような記載もあった。広告の手法も時代によって変化している。

『アンタッチャブル』の舞台は1930年前後のシカゴ。
1934年生まれのアルマーニが、50年代にアメリカンカルチャーの洗練?を受けた後に、歴史を遡って30年代の衣裳を作っている点は興味深い。
公開年である1987年は、日本はバブル経済のまっただ中、アルマーニジャパンが設立された年。

イタリアでは、ある年代の方々が50年代から60年代のアメリカンカルチャーに影響を受けているという話を聞いた事がある。

90年代中頃に訪れたミラノで、ある有名なジーンズブランドのショップの内装が原宿にあったPROPELLER(プロペラ)のまんまコピーだった事に衝撃を受けた。
2000年代フィレンツェの展示会(PITTI)では、とにかくアメリカンなカジュアルブランドのコテコテなプレゼンテーションを見ないシーズンは無かった。何かというとスティーブ・マックイーンだった気がする。

<続く>

第1話はこちら
Kenichi Kusano

KENNETH FIELD Designer草野 健一

1969年熊本生まれ。ビームス プラスのディレクターを務めたのち、2012年より自身のブランド「KENNETH FIELD™(ケネス フィールド)」を始動。「For NEW TRADITIONALIST」をコンセプトに、アメリカントラディショナルを多角的にアップデートしたアイテムを提案する。2014年まで「バラクータ ブルーレーベル」のデザインを担当。2014年には「ルウオモヴォーグ」と「 GQイタリア」が主催する新人デザイナー「THE LATEST FASHION BUZZ」に選出される。