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STORY

M-65 は世界通貨である

ビスポークのチェスターやら、エルメスのダッフルやら、アルマーニのデザイン系やら、日替わりでいろいろなコートを着まわしている僕だが、仕事とは関係のない海外旅行の場合、結局 M-65 とそれ用のライニングだけを持っていくことになる。なぜかって? まず動きやすい。そしてライニングさえつければ冬の N.Y. でも耐えられるくらいに暖かく体温調整をしやすい。汚れても気にならない。雨にも強い。お金とかパスポートとか携帯とか小さなガイドブックとかカメラとか、なんでもポケットに詰め込める。スーツの上に着ればお洒落なレストランにも入れるし、イージーパンツやシェットランドセーターの上に着ればお金の匂いを完全に消し去れる(これがけっこう大事)。冬のアウターとしてこれ以上のものは絶対にないだろう。そしてもうひとつの魅力は、僕の大好きなイスラム圏における「ある一定の層」には、このコートがビンビンに響くからなのだ。


3年前のトルコ旅行のときには有名なグランドバザールでウズベキスタン人のオヤジにこいつをなんとか売ってほしいとせがまれて、写真左の素敵なコートと物々交換をすることになった。ウール地で、パイピングには贅沢な刺繍が、裏地にはシルクがあしらわれた、とてもロマンチックな逸品である。これを着て成田空港に降り立ったときは、中年バックパッカーみたいでちょっとはずかしかったが。
2年前のモロッコ旅行の際にはエッサウィラの若者にこれをカーペットと交換してくれと1時間くらいつきまとわれて困ったものだ。ごめん、本当は交換してあげたかったけれど、僕はそのとき風邪をひいていたのだよ・・・。

これを着て旅行をするたびに、こんなありふれたコートに、なんでみんなそう目をギラつかせるのかな? と疑問に思ったのだが、よく考えたらトルコやモロッコの人は、日本で70年代に勃発したようなリアルなアメリカンカルチャーブームを経験していないのだ。その微妙な距離感ゆえ、当然アメ横や中田商店系の米軍払い下げ系のお店もない。彼の地の若者たちはみんな一見アメカジ風だが、よーく見るとそれらはディーゼルのようなヨーロッパ経由のアメカジであり、リーバイスやコンバース、ナイキといったリアルなアメカジアイテムを身に着けている人は、ほぼ皆無なのだ。マーケットで働いているような人たちは、そのあたりの情報を知っているがゆえ、本物のアメリカに飢えているのだろう。
ならば今度からイスラム圏を旅行するときは、いざというときは売れそうだし、こいつを1着余計に持って行こうかな? なんて思ったのだが、すぐに諦めた。中田商店はじめ何軒かのミリタリーショップを覗いてみたら MADE IN USA でサイズを含め状態のいい古着はけっこう希少な存在になっており、もはや1万円では買えなくなっている。しかも新品で売っているのはアルファ社の、スリムフィットに変わり果てた中国製。もはや人にあげている場合じゃなかったのである。
Eisuke Yamashita

Fashion Editor山下 英介

1976年埼玉県生まれ。大学卒業後いくつかの出版社勤務を経て、2008年からフリーエディターとして活動。創刊時からファッションディレクターとして携わった「MEN’S Precious(小学館)」を、2020年をもって退任。現在は創刊100周年を迎えた月刊誌『文藝春秋』のファッションページを手がけるとともに、2022年1月にWebマガジン『ぼくのおじさん/MON ONCLE(http://www.mononcle.jp)」を創刊、新しいメディアのあり方を模索中。住まいは築50年のマンション、出没地域は神保町や浅草、谷根千。古いものが大好きで、ファッションにおいてもビスポークテーラリング、トラッド、モード、アメリカンカジュアル……。背景にクラシックな文化を感じさせるものなら、なんにでも飛びついてしまうのが悪いくせ。趣味の街歩きをさらに充実させるべく、近年は『ライカM』を入手、旅先での写真撮影に夢中。まだ世界に残された、知られざる名品やファッション文化を伝えるのが夢。