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STORY

『ほうろう』

はじめての海外はニューヨーク、それもひとり旅。日本を発つまではドキドキワクワクだったのだけれど、長時間のフライトにやられてしまったようだ。何があったわけでもないが、ジョン・F・ケネディ空港からのバスに揺られる間、どんどん気持ちが沈んでいくのがわかった。これがホームシックというやつか!遠い田舎から上京した時にはその存在さえも感じなかった心の装置が、どうやらこのタイミングで発動してしまったらしい。

車窓に流れる景色は、どれも人気(ひとけ)を感じないコンクリートのビルたち。けばけばしい色づかいのグラフィティだけが、不気味な存在感を見せている。どこからともなく感じる身の危険。ファッション雑誌から学び、頭のなかで夢想してきた「NYのストリートカルチャー」という言葉がいかに浅はかなものであったか、このとき嫌というほど思い知った。ぼくはたまらず上着のポケットを探り、イヤホンを耳にあてた。日本の歌が聴きたい!急激に欠乏していた故郷のエキスをむさぼるかのように、耳から入りこむメロディに集中したのであった。


小坂忠という歌手の『ほうろう』というアルバムは、和製 R&B の名盤とされる作品だ。手練れであるバックバンドの産み出す16ビートは、確かに日本人離れしたグルーヴ感である。しかしながら、そのヴォーカルは全くもってナチュラルな日本語。例えば、はっぴいえんどのような “試行錯誤感” があるわけでなく、後の桑田佳祐のような英語的歌唱を聴かせるわけでもない。せいぜい歌詞の面で「ほうろう= hold on 」や「ゆうがたラブ」などの言葉遊びがある程度。

大袈裟かもしれないが、今どき「うたのおにいさん」でもやらないような綺麗な発音であり、あの頃 “四畳半” として皮肉られた類にも聴こえる。それにもかかわらず、日本語ポップスでありがちな野暮ったさは皆無で、洒脱ですらある。湿り気が無く軽やかなのに、伝わってくるのは日本的ハードボイルド。まさにアメリカを “ほうろう” し始めた僕にとって、それは救いの音楽になったのだった。

それからというもの、旅の途中にはつい口ずさんでしまう『ほうろう』。いや、旅路でなくとも、何かしらの岐路に立たされた時には、どうしても聴きたくなってしまう1枚です。
Yasunori Nakadake

Used Bookshop Owner中武 康法

1976年宮崎県出身。大学入学と同時に上京。それから間もなくして、世界的な古書店街である神田神保町にて古書の道へと進む。10年以上の古書店勤務を続けるなかで、過去のファッション雑誌を顧みることの面白さと重要性を見出してゆく。そして2009年、同じ神保町の地に古書店「magnif(マグニフ) / http://www.magnif.jp」を開業。ヴィンテージマガジンを中心としたその品揃えは瞬く間に注目を集め、開業から今日まで多くのマスコミに取り上げられる。特にメンズファッション関連の品揃えには定評があり、服飾メーカー、デザイナー、ファッション雑誌編集者、そして多くの洒落者や趣味人たちが足繁く通う店となっている。最近ではアパレルショップ、百貨店などのイベント協力など、その活動の幅は更に広がりを見せている。