先日、ある書籍の出版記念パーティーにお呼ばれされまして、そこで某誌元編集長からコラムのキレについて御指南いただきました。結論はダラダラ長く書く方が意外に楽で、字数制限がある中で起承転結させる難しさや字数オーバーですでにまとまっている状態から削り取っていく大変さなどで終始盛り上がりました。特に掌編小説タッチで入った場合、制限があると状況説明に字数がさけず、読者に空想していただく様な結果になるんです。でもその空想を強いる作業って、文章を歌の歌詞に近づけていく感覚なんですよね。限られた字数で1編の映画を見終えた様な達成感、1文字も無駄の無い限界まで削ぎ落した比喩表現を目指す的な。
そしてそれを完璧に表現しきっているのが表題、ちあきなおみの「喝采」だと思うんです。この曲のベースにエディット・ピアフの人生がトレースされているかは定かではありませんが、歌い出し直後から頭の中に映像が見える気がしませんか? 例えば、1分45秒からの歌詞のくだり「暗い待合室〜」。薄っぺらいお涙頂戴映画なら、私は亡骸に直接語りかけるように私の歌を歌うと思うんです。なま歌のアカペラで。でも喝采は違います。待合室のラジオから、あれだけ彼から行くこと反対された都会で吹き込んだ自分の歌が、あくまで客観的に彼の亡骸と自分の前を通り過ぎるんです。私の歌う恋の歌は彼だけに向けたのではなく世の男性全てに向けた物ですよね。レコーディングな訳だし。彼から私への仕打ちとしては結構キツイですよね。これがホントの映画なら女優の力量の見せ所です。泣けない哀しみの見せ所です。サラッとした歌詞なんですけどね。悲しみを全面に出す事も無く淡々とシーンが流れて行くだけなんですけどね。巧妙な言葉の仕掛けが散りばめられているんです。あえて「私の耳に私の歌が」と、近い位置で2度「私の」を繰り返すことで追い込まれた感が増してますよね。そしてちあきさんの湿度でそれら全てを包み込む。曲調はむちゃくちゃドライだと思うんです。私は放心しながらも泣いてはいない。でもちあきさんの歌声と昭和の湿度でぐちょぐちょな印象が残るんですよね。
だからこの曲、あまり女性でカバーに挑む方って少ないと思うんです。海外文学を意訳する事はままありますが、このちあき版「喝采」に別のアプローチ(意訳)で切り込む隙はもはや見つからないんでしょう。ただちょっと残念なのが、ちあきさんってタンスにゴンのCMとコロッケの物まねで相当もってかれてますよね。歌の力としてはJAZZYなクラスだと思うんですけどね。スタンダードなんかも結構歌われてますし。一度は生で聞いてみたいですよね、喝采。ちなみにデビュー当時、胸の大きかったちあきさんをみて故大橋巨泉さんはボインという造語を作ったそうです。ちあきさんはしょっぱなからいじられキャラだったのかもしれませんね・・・。


















