
80年代、文化服装学院に在学していた者にとって、ヴィヴィアンはちょっと特別な存在だった。当時アヴァンギャルド3として、コムデギャルソン川久保玲、ヨージヤマモト、J.Pゴティエが一大勢力として祭り上げられてはおりましたが、一部学生からのカルト的人気は、今で言うストリート色、サブカル色が最も強かったヴィヴィアンの方が上だった様に思います。クラブや夜のカルチャーと最も密接だったのもヴィヴィアンだったし。ロンドンナイト、ツバキハウスとかね。とはいえ、当時なかなか高額のヴィヴィアンの服を買える学生はほんの一部で国産のミルクやO.D オブブルジョアジーなどが同類のカテゴリーとして苦学生には人気でしたっけ。
そんなヴィヴィアンが遂に天国に召されてしまった。反体制の女王が体制の女王と3か月差で亡くなるとは・・・。
ここで、ボクが90年代、ロンドンに遊びに行った時、ヴィヴィアンのプレスに友人がいて、その時聞いたあまり語られていないヴィヴィアンのお話を2つほど。
① そもそもヴィヴィアンという人は英国カルチャーの根幹的概念D.I.Y精神を当初から貫いていた方で、たとえば初期セデショナリーズのプリントTシャツもほぼ服飾やアートを志す学生に刷らせていたそうです。いいですよねー!手作りDIYって。なるほどプロの印刷技術っぽさを作品からは微塵も感じさせないパンクな作風はここから来てるんですねー!納得です。しかし大問題が実はあるんです。学生にオリジナルの版を渡しての作業なもんだから、学生達は私的にバンバン刷っていたらしいんです。なのでヴィヴィアンマニアの言う「当時のニセモノ」が多数存在してしまう結果を招いてしまったそうなんです。
まぁ、よくよく考えてパンクの性質上、本物、偽物の概念なんてグレーなところが面白い訳で当時、オリジナルの資材から生まれたものであれば基本的に全てOKな気がボクはしてしまいます・・・。
② 90年代のロンドン、ヴィヴィアン本社のクリエイティヴチームは実は本人を含んで3人しかいなかったそうです。そんな少人数でどうやってランウェイなコレクションを作り上げていたかというと、全ては服飾学生ボランティア達の力だったそうなんです。そしてヴィヴィアン本人が最も注力していた、他の人には触らせなかった仕事があったそうです。その仕事とは!!ヴィヴィアン完全手作りのシチュースープを学生達全員に毎食振る舞うこと。パンクの女王の裏の顔は学生達からすれば、びっくりするほどのお母さんの顔だったそうです・・・そんなボクでも、手作りシチューこそ頂いてはおりませんが、パンク魂を刷り込まれた息子と勝手に思って30年、このファッション界で生きて参りました。 心の底からR,I,P GOD SAVE THE QUEEN!


















