新年が開けて、買い物がしたくなった。別になんでもよかった。ただ、最近はカメラのレンズとか椅子とかを買っていたので、できればファッション的なものがよかった。
そこで、何となく買ってみたのがBLESSのピンズ。安いお土産物みたいにポストカードとセットになっているこれら、パッと見はガラクタが付いたピンズ。よくよく見ても、結果は同じ。ガラクタが付いたピンズ。
ホントに、どこかその辺りで拾ってきたようなものばかりがアソートで付いている。そういえば17年前にベルリンへ行ったときも、BLESSのストアで意味のないピンズを買った。
もうひとつはカバン。BLESSではお馴染みのシリーズ「N°14 Shopping Supports」より、メッセンジャー型のレザーバッグ。バッグとは言ったものの、構造的には断ち切りのレザーを二枚縫い合わせただけ。圧倒的にマチがないペタンコの作り。スーパーで買ったものを入れようと思っても板チョコとレシートしか入らないであろう厚みの無さ。
じゃあ、どこが「Shopping Supports」なのかというと、内側に取り付けられた二つのフックに買い物袋をぶら下げて使うという点らしい。買い物という日常的なシチュエーションに対して、ここまでナンセンスに応えようとする感覚。合理的にハラオチする機能性がない代わりに、BLESSのプロダクトには独特のたたずまいがある。コンセプチュアルなデザインがある。僕はそういうものにこそ惹かれる。このバッグだって、本気でショッパーをぶら下げたり、買い物をサポートしてもらうために買ったわけじゃない。
フックは使わなそうだったので、そこには例のピンズをジャラ付けしてみた。意味なくて、可愛い。
僕は別に機能性が低いものを意固地に愛するわけではない。ひねくれて見せているわけでもない。ただ、プロダクトそのものの機能性が高すぎるとデザインや各ディテールが目的を完璧に果たし過ぎてしまうため遊びが無くなってしまう、ことが嫌いなだけだ。そもそも、現在のファッションは役に立つものに頼りすぎていると思う。勿論、役に立つものはいい。便利だ。快適だ。日常的だ。同時に、退屈と表裏一体でもある。
BLESSのチームは未来について考えていると思う。それは「直接的に未来へ向けて役立つプロダクト」ではなく「立ち止まって考えるための力、当たり前だと思わずに感じてみるためのきっかけ」をデザインしているということ。芸術に近い。いや、芸術だなんていうと、お高く気取った印象になるだろうか。ともかく、「ソレ」そのものでは何の役にも立たないが、「ソレ」に触れる前と触れた後では世界の見え方が少しだけ変化するようなもの。モノリスに触れて猿は知恵を得たが、「ソレ」に触れると人は視点を得る。本来、ファッションには「ソレ」特有の可能性があったはずだし、1990年代にはマルタン・マルジェラが「ソレ」を繰り返し提示してきたにもかかわらず、いまの日本はマルジェラ期エルメスを手放しで有り難がる逆説の世界。つまり、役に立つもの(評価が覆らないもの)の飽和を意味する。しかし、いずれは枯渇する過去の名作を疑うことなく受け入れ続けていると、いつか全てのアーカイブが無くなったとき、ゼロ地点から立ち上がる力はファッションに残されているのだろうか。役に立たないもの、希少価値の無いもの、過去の他人が太鼓判を押してくれなかったもの、マジでくだらないもの。技術は革新を続けるが、役立たずは淘汰されやすくなるであろう近い将来、グズグズなものしか手元に残らなくなったその時。「ソレ」に触れてきた人間の方が強さを発揮するんじゃないか、なんて僕は思っている。
そんな打算的目線で買い物をしてるわけでは決してないのだが、自然と僕は役立たずに牽かれてしまう。既にあるものに面白さを見つけられないのは自分の責任だと思っているから。決して他人のせいではないんだよ、「ソレ」がいかに働くかということは。
新年が開けて、買い物がしたくなった。別に何でもよかった。僕は他人のせいにしたくなかっただけかもしれない。できればファッション的なものがよかった。もしもファッションにおいて、過去のモノにしか活路を見いだせない時間が長く続くのだとしたら、それは現在のファッション業界に未来への活路を見出だす感性が乏しいせいだと、僕は思っている。他人の担保をアテにしてはいけない。














