『日本までもつかな?』空は薄暗く、小雨が降ってきた。フライトまで時間は充分ある。アパートのポルトの前までタクシーを呼んでも良かったが、これで最後だと思ったら無性に歩きたくなった。住んでいると何人もの友人、知人を空港まで見送ることとなる。そして遂に今日、俺が見送られることになった。自分で決めたことだ。いつかは日本に帰る日が来るのだ。
メトロ・アベス駅からふもとのピガールまではモンマルトルの丘の南斜面を一気に下る。途中、いつものビーハイヴヘアの男娼婦が立っていた。ca va junne homme? (若い兄さん、元気?)いつも同じ建物の角から上目遣いで声をかけてくるビーハイヴ。日本に帰るよ、と言うと bon courage (幸運を)と返してくれた。住み始めの頃は怖かったが今では風景の一部と思えるようになっていた。
広場周辺にはメルゲーズやケバブの焼ける香りが立ちこめている。『喰ってくか?』俺は首を横に振った。深夜にこの界隈で腹を満たせるのはこのサンドイッチしかなかった。もう十分食べたよ。もう少し街の余韻に浸りたかったが、こんな時に限って無情のライトをつけたタクシーはすぐにやって来た。『じゃあこれ。』アパートの鍵を友に渡す。あの部屋は俺の後には友が住むことになっていた。引き継ぎの儀式は思いのほか簡単に済んでしまった。別れ際、照れからなのか在仏日本人同士は挨拶の握手をあまりしない。フランス人とは La bise のキスまでするくせに。しかし今回ばかりは違った。ムッシュがスーツケースをトランクに詰めている間、友は右手を差し出した。ダウンバイローのラストの様にその手をかわしても良かったが、心にそんな余裕も無く、固い握手を交わして全てが終った。
自らドアを閉め、ロワジー・ターミナル1を告げた。ドライバーのムッシュをよくみればなかなか立派なリーゼントヘア。助手席には愛犬のシェパードが乗っている。極めてフランス的な、ラストにふさわしいタクシーに乗り合わせたことを幸運に思った。BGM はエルビス・イン・べガスのカセット。音量こそ謙虚だったが、自分もエルビス好きである事を伝えたとたんにムッシュのフルボリューム・オンステージが始まった。ちょうどいい、モヤモヤした気持ちがこれで紛れる。『サスピシャス・マインド』を歌い合っていると料金メーターがCエリアに変わった。手持ちのお金を確認しようと無意識にポケットに手を突っ込むと、ん、何かが入っている。
引っ張り出すとハンカチだった。昼過ぎに帰国土産を買いにレアール界隈を回った時、馴染みの古着屋で餞別に貰った LANVIN のハンカチ。本物かどうかもわからないが80’S の物だった。そしてタクシーは渋滞することもなく帰国便の待つ空港へずんずん近づいていく。BGM は『アメリカの祈り』。エルビスのステージも最後の曲だ。とうとうこみ上げてくるものを我慢できなくなり俺は LANVIN のハンカチに顔を埋めた。声が漏れないように必死に息を止めていた。初老のエルビス、シェパード犬、泣いてる俺。この不思議な2名と1匹を乗せた車はあっさりとターミナル1に到着した。『アリべ』ムッシュはぼそりと一言。俺の23歳の涙は大きなハンカチのおかげで犬のシェパードですら気付いていないはずだ。顔をあげるとルームミラー越しにエルビスと目が合った。しわしわの下がった目尻で彼は俺にウインクしながら bon courage (幸運を)。俺はパリの幸運を最後に2つも手に入れた。
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