『ただいまー。』母は俺の顔を見るなり『お茶でも飲んできな。』いやいや、俺の頭の中はすでに露天風呂のイメージで一杯だった。丁重にお断りし、脱兎の如くグレゴリーを持ち出そうとしたその時、『下駄箱の上のラジオ使えるの?いらなきゃ捨てるわよ。』テレビを見たまま背中でしゃべる母。ん?これは!ラジオとは俺の10代の思い出の詰まったウォークマンであったが、 動揺の矛先は中に入りっぱなしのカセットテープにあった。30数年前のカセット。TDKクローム120分。見出しシールには手書きでデビッドボウイ・マイベスト。火にかけたピーピーケットルが情けないくすぶり音から絶叫へ変わる蒸気の様に、当時の記憶が沸き上がってきた。恐る恐る再生ボタンを押してみたが当然動かない。更に乾電池の形が妙だ。とにかく何としてでも再生したい、確かめたい事があるのだ。途方に暮れつつ下駄箱の上に目をやると親父の車のキーが目に入った。そうだ!親父の軽にはクラリオンのアレがあるじゃないか!親父は『おまえも変わってるよな。』と言いながらキーを手渡してくれた。かわりに俺は AMG のキーを差しだした。旅の目的が温泉から別の物に変わってしまったが、その変化に悪い気はしなかった。キーを回す。660cc の乾いた軽い音がひびく。俺は祈る気持ちでクラリオンに TDK を差し込んだ。
ジョワッ!不思議な音とともにアナログカウンターは回り出した。Ⅰ曲目ドライヴイン サタデー。一瞬で車内は1982年の空気になった。口元は上がり、目尻は下がる。強い日差しの中、時速50キロ平均で海沿いの134号へ。さながらデヴィッド・リンチの『ザ・ストレイト・ストーリー』の様な気分だ。30年前のマイベストテープをクラリオンで聞きながら軽で温泉を目指す、振って涌いた初夏の昼下がり。決して悪くない。車は順調に西湘バイパスへ。曲はアルバム・アラディンセインからジギー・スターダストへと進む。実はこのカセットは当時、付き合い始めた彼女へ向けたプレゼントだった。1週間かけて選曲&録音した力作だったはずが、金曜に手渡すと月曜日に返された。なぜか『本当にごめんね』の一言と共に。思えば全力を尽くして浮かばれなかった初めての恋だったかも知れない。あまりのショックにカセットをウォークマンごと押し入れにしまい込んで忘れていたものだった。デヴィッドボウイと16歳の心をのせた車は、パイパスの終点にさしかかる。今日の西日は一頻り眩しく感じる。少しの間、早川のドライブインで車を止め海が見たくなった。エンジンは切ったがテープデッキはそのまま回っている。曲はサフラゲットシティー。眼下に広がる海は金曜ロードショーのオープニングで見た光景だな、などど思い出し笑い。全てはクラリオンの音質のせいだ。キラキラと黄金に煌く水面、曲はテープの最後でもあるロックンロールスーサイド。歌うボウイもオーケストラも最後の高音域のクライマックスへ・・・すると突然『ジュボッ・・・。あっ何これ?』喋ったのは紛れも無く16歳の彼女だった。クラリオンのウーファーから30年の時を経て飛び出してきた彼女。その声を聞き間違えるはずもない。
5秒後『ゴメン!変なボタン押しちゃった・・。』30年越しの録音謝罪。そしてタララーン・ジャーン。曲も終わり恋も終わった。俺がカセットの爪さえ折っておけば、今ここの助手席には彼女が座っていたかもしれない。だが、再会は果たした。ここで。
この後味は温泉で洗い流そう。悪くない休暇だ。



















