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STORY

鹿鳴館にて


「鹿鳴館(ろくめいかん)」とはたしか「国賓や諸外国の外交官を接待するために明治政府が建設した社交場」のことだったよな、と思いながら僕は池袋の酒場で彼の話を聞いていた。

彼と初めて会ったのは2002年あたりと記憶しているので、かれこれ20年以上も前にもなる。当時の僕は新宿・ビームス ジャパンのメンズデザイナーズフロアで働いていたのだけれど、同じビルの地下(メンズカジュアルフロア)にアルバイトとして入社してきたのが彼だった。その頃はまだフロア違いで、関係性の遠い後輩だった。第一印象は「生意気そう」とかそんなものだった気がするし、実際に生意気だった。その後、2004年にまだ地下にあった頃の原宿・インターナショナルギャラリー ビームスへ僕は異動した。当時のギャラリーは、スタッフも怖いし薄暗いしで「緊張して入りにくい洋服屋」の代表格だった。同じビルの2Fにあったビームス ニューズに新宿から異動してきていた彼は、たまに雑用(裾上げなど修理品のピックアップ)を済ませに地下へ降りてきた。まだ23歳かそこらの下っ端で、インターナショナルギャラリー ビームスの諸先輩たちから見ると完全な若造だったはずの彼だが、その表情はなぜかいつも憮然としたものに見えて、愛想もクソもない。ロン毛を後ろで束ねて一つ結び。言動からも若さゆえの「ツッパリ」が感じられた。しかし、身なりはブルックスブラザーズと思わしき紺色のブレザーに白いボタンダウンシャツ、M65の太い軍パン。いま聞くと「ザ・普通じゃん」と思ってしまいがちだが、2004~5年当時の巷では(洋服屋のスタッフも含めて)ほとんど見かけない感じだった。みんなデザイン過剰の変な服ばっかり着ていた時代。そんな中、(別にそれまでの彼を見下していたとかそういう意味ではなくて)とても好感の持てるベーシックスタイルに身を包んだ彼を見て僕は「へぇ」と見直した気がする。いい意味で「オールドファッションな洋服屋のニイチャン」に思えた。そう、彼は「周りがどうであれ、真っすぐな奴」だったのだ。それから彼とは10年以上同じ店で働くことになる。

彼の名前は岸田雅裕といった。僕が辞めた一年後に、彼もまたビームスを去った。




「店の名前は決めてあるんスよ」「へぇ、なんて?」「ロクメイカン」「鹿鳴館、てあの?」「あ、一応アルファベットで」「あぁ、漢字だとなんかアレだもんね(笑)」「はい(笑)」「洋菓子とか売ってそう」

僕にとっては旧知の仲。キッシーこと、岸田雅裕がこのたび高円寺に古着屋を開店した。高円寺とはいっても新高円寺と高円寺の間くらいに立地。今や週末になると古着ディガーと回遊カップルで溢れる観光地みたいな商店街のちょっと先、なんなら住宅街の片隅にぽつりと在るその店。2023年5月6日、つまり遡ること数時間前。ROKUMEICAN(ロクメイカン)のオープン初日に僕は開店祝い(キンミヤの1.8リットル紙パック)をぶら下げて彼の店を訪ねた。シンプルな内装、ストレートな買い付け。仕入れはすべてアメリカで、スリフトショップ巡りの一本勝負らしい。実に、キッシーな店だった。やはりキッシーはキッシーだった。








彼は、僕と違う。タイプが違うから、出会ってすぐに仲良くなったわけではないけれど、なぜか段々と仲良くなって、気が付いたら結構仲良くなっていた。今はめちゃくちゃに仲良いと思っているんだけど、彼がそう思っていなかったらとても嫌なので、これくらいにしておく。で、彼の何が僕と違うかというと「熱しやすく冷めにくい」のだ。10年ほど前に「最近、ベーグル作りにハマってるんですけど…」と彼が言い出したころ、彼は既に「いろいろ試したんスけど、やっぱ、リンゴよりブドウの方が膨らむっスね」とオリジナルの酵母から作り始めていた。30を過ぎてからボクシングを始めるためにタバコもきっぱりと辞めたし、通い始めたジムは日本チャンプが所属する超・本気のジムで「いや~、こんな大人になってからでも他人に(トレーナーに)ビンタされるとかあるんスね。部活かと思いましたよ」と笑っていた。趣味で始めたカメラも前職のビームス時代から社内カメラマンとして稼働するほど上達していたし、ジャンク品のアンティークウォッチを買ってきては独学で解体し、とうとうオーバーホールまで一通りできるようになってしまった。「熱しにくく冷めやすい」僕にはキッシーの爪のアカでも煎じて飲ませてほしいくらいだけど、きっと彼なら「爪を煎じるなら80℃で40分くらいゆっくりと煮出すのがいいって、最近やっと分かったんスよ」とか言ってきそうなので、頼むのは止めておこう。

「俺に合うデカいサイズのウエスタンブーツが欲しい」と言ったら、キッシーは僕に合いそうなデカいサイズのウエスタンブーツを裏から出してきてくれた。ぴったりだった。リザードとギザギザのファイヤーパターンが組み合わせられたノーブランドのウエスタンブーツと、変な色をした工具入れらしきウエストポーチと、妻用の手土産に赤いアメリカ製のパンツを買って僕はROKUMEICANを後にした。





なんて。新規開店のお店を題材にコラムを書くと或いはいかにも宣伝・広告っぽい感じがするかもしれない。そして、たしかに僕はこのコラムを彼のお店を知ってもらうために書いている。けれど、だとしたら、それが一体何だっていうんだ。彼から頼まれたわけではない、僕が勝手に書いている。古い友人がお店を出した。僕は嬉しい。僕を嬉しい気持ちにさせてくれた彼を、僕も喜ばせたい。キッシーを喜ばせるためだけに、僕はいまこのコラムを書いている。彼が僕に対して時間を使ってくれたように、僕は彼に対して時間を使いたい。意外と僕はサービス精神が旺盛らしい。でも、恩は着せない。なぜなら、フェアだから。むかし、足に全然合わないアバディーンラストのタッセルスリッポンを根性で履き続けた結果、擦れた踵が化膿して入院してしまったキッシー。(奥さんが撮ったらしき)彼が車椅子に乗っている写メが突然送られてきて、当時の僕は爆笑してしまった。いまそれを思い出して、僕はまた笑った。

他人のことを思いながら過ごす時間は幸せに溢れている。勿論、すべてがそうじゃない。不安や悲しみや怒りが応酬する夜もある。けれど、2023年5月6日は幸せとともに筆が滑るように走った。「熱しにくく冷めやすい」無精者の僕が、こんなにもしぶとく何年もコラムを書き続けていられるのは人に恵まれているからだと思う。ありがたいと思う。だから、キッシーにはこれからも元気でいて欲しい。もう足に合わない靴を無理して履いたりするなよ。でも、もしキッシーが懲りずにまた怪我したら、そん時も笑うから、俺。きっと。

いま調べて知ったけれど、明治時代の社交場「鹿鳴館」の名前は「鹿は餌を見つけると仲間を呼んで一緒に食べる」という逸話に由来しているらしい。

@rokumeican_koenji

Satoshi Tsuruta

NEJI Organizer鶴田 啓

1978年生まれ。熊本県出身。10歳の頃に初めて買ったLevi'sをきっかけにしてファッションに興味を持ち始める。1996年、大学進学を機に上京するも、法学部政治学科という専攻に興味を持てず、アルバイトをしながら洋服を買い漁る日々を過ごす。20歳の時に某セレクトショップでアルバイトを始め、洋服屋になることを本格的に決意。2000年、大学卒業後にビームス入社。2004年、原宿・インターナショナルギャラリー ビームスへ異動。アシスタントショップマネージャーとして店舗運営にまつわる全てのことに従事しながら、商品企画、バイイングの一部補佐、VMD、イベント企画、オフィシャルサイトのブログ執筆などを16年間にわたり手がける。2021年、22年間勤めたビームスを退社。2023年フリーランスとして独立、企画室「NEJI」の主宰として執筆や商品企画、スタイリング/ディレクション、コピーライティングなど多岐にわたる活動を続けている。同年、自身によるブランド「DEAD KENNEDYS CLOTHING」を始動。また、クラウドファンディングで展開するファッションプロジェクト「27」ではコンセプトブックのライティングを担当し、森山大道やサラ・ムーンら世界的アーティストの作品にテキストを加えている。