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STORY

35年前のアパルトマンの鍵

全く写真を残していなかった。
ケータイ画像をメモがわりにする現代では考えづらい事だが、目視できる思い出がない。
頭の中に、胸の奥に微かに残る乾いた空気、色、匂い、それだけ。
しかし偶然の神様は突然舞い降りてくるもので、3月の終わりにボクの手のひらにそれは届いた。
その数枚の写真・・・89 ・9 ・1 の文字。パリ18区サクレクール寺院に程近いボクの小さなステュディオ、そして23歳の自分。散らかった部屋。
当時、たまたま旅行に来ていた姉貴が「写ルンです」に残していた数枚の記録。先日、母の八十寿を迎える宴の席で姉貴はそっと手渡してくれた。
胸の中にしか残っていない筈の映像が今、手のひらの上にある。それも予告もなくいきなりに。
こんな血液が逆流するような思いは久しぶりだった。
覚えている、あの壁のシミ。
覚えている、ちゃんと閉まらないトイレのドア。
トイレの小さな正方形の窓からはエッフェル塔が綺麗に見えた。窓枠がそのままヴィンテージな額縁となり、そのセンターにエッフェル塔が滲んで見えていた。夜中の1時に消灯するその塔をこの小窓からもよく眺めた。まさに無音の世界だった。
*****
部屋のBGMはもっぱらレコードだ。日本からCDラジカセを持ち込んだものの、当時普及したてのCDが高くて買えなかったから。自ずとポータブルプレーヤーとLPが全てとなった。蓋がスピーカーになるおもちゃのようなプレーヤー。針が折れたら本体ごと買い換えることとなる。結局、3年で5台買った。
スタンゲッツ、チェットベイカー、ビリーホリディ、EPはストーンズ。この部屋で夜景を見ながら聞くビリーホリディはどんなハイエンド・オーディオよりも胸をえぐられた。
耳から聞こえる音と体に染み込む音は全く別物で、自律神経に支障が出始めていた自分にはビリーの『GOD BLESS THE CHILD』は身に堪えた・・・。
*****
モンマルトルの丘、南斜面に建つ築150年のこのアパルトマンの窓からはあり得ないほど美しいパリの全てが見えた。
この窓辺に立ち、よくも飽きずに景色を眺めていた。たまにメトロ駅前のアベス教会の鐘の音が響く。この高さまでくると意外に街の喧騒は届かず、真空の中にいるような感覚になる。
この写真は帰国後数年経ったのち、いまだに住んでいる友人を訪ねた際、NIKON D3で撮らせてもらった1枚。夏の雲だろうか?そしてその夜。
我がaubergeチャンネルのオープニング画像である。フランスではこの完全に日が沈むまでの、街が紺色に染まる時間帯を海の水族館と呼んでいる。
ジェリーマリガンの『NIGHT LIGHT』をプレーヤーに置く。意味もなく、おへそから胸へと不思議な程に震える様な感情が込み上げてくる。
若かったのか?不安で不安で仕方がなかったことだけは覚えている。
*****
91年、日本では自民党が土井たか子率いる社会党に敗れ、バブルが完全崩壊したようだった。ボクもこのタイミングを潮時と思い、帰国を決意した。
友人がそのままこの部屋に住んでくれることになっていたので、炊飯器やラジカセは彼に託した。
*****
帰国の日の朝、この扉の鍵を閉めてボクのパリのすべてが終わった。表札がわりに貼っておいたアンディーウォーホールのポストカード。
こんなものまで姉貴は写真に収めていた。記録ツールとしての「写ルンです」には、アドビの画像加工も、過度の演出も、撮影者の狙い撃ちすら存在しない。何もできない。
乾いた無機質な音と共にそのドキュメンタリーは本体一体のフィルムに焼き付けられていく、それだけだ。
だが、そんな無意識、偶然の織りなす写真にここまで心を動かされてしまうのか?としみじみ思う。
霧の彼方にうっすら浮かぶ蜃気楼のような記憶がいきなり実像となって現れる衝撃。
35年後に突然現れた、少々黄ばんだそのスナップ写真にはボクの夢や苛立ちが写っているように見えた。
*****
帰国の朝、アンディーウォーホールに別れを告げ、その鍵を友人に手渡した
実は鍵は1つではなく、もう1つの合鍵がボクのポケットの中にあった。
パリとの繋がりが切れぬよう、いつか必ずここに戻ってくる誓い、願いを込めて、
最後のパリへの約束の鍵は渡さずにおいた。
2023・4・21 恵比寿AUBERGE事務所にて撮影。






Manabu Kobayashi

Slowgun & Co President小林 学

1966年湘南・鵠沼生まれ。県立鎌倉高校卒業後、文化服装学院アパレルデザイン科入学。3年間ファッションの基礎を学ぶ。88年、卒業と同時にフランスへ遊学。パリとニースで古着と骨董、最新モードの試着に明け暮れる。今思えばこの91年までの3年間の体験がその後の人生を決定づけた。気の向くままに自分を知る人もほぼいない環境の中で趣味の世界に没頭できた事は大きかった。帰国後、南仏カルカッソンヌに本社のあるデニム、カジュアルウェアメーカーの企画として5年間活動。ヨーロッパでは日本製デニムの評価が高く、このジャンルであれば世界と互角に戦える事を痛感した。そこでデザイナーの職を辞して岡山の最新鋭の設備を持つデニム工場に就職。そこで3年間リアルな物作りを学ぶ。ここで古着全般の造詣に工場目線がプラスされた。岡山時代の後半は営業となって幾多のブランドのデニム企画生産に携わった。中でも97年ジルサンダーからの依頼でデニムを作り高い評価を得た。そして98年、満を持して自己のブランド「Slowgun & Co(スロウガン) / http://slowgun.jp 」をスタート。代官山の6畳4畳半のアパートから始まった。懐かしくて新しいを基本コンセプトに映画、音楽等のサブカルチャーとファッションをミックスした着心地の良いカジュアルウェアを提案し続け、現在は恵比寿に事務所を兼ね備えた直営店White*Slowgunがある。趣味は旅と食と買い物。