表参道ヒルズの地下で開催されている展覧会「KAMO HEAD ‐加茂克也展 KATSUYA KAMO WORKS 1996-2020‐」は2020年に54歳で逝去した同氏が遺した約200点のヘッドピースを展示している。CHANELやFENDI、JUNYA WATANABE、UNDERCOVERをはじめとする数々のコレクションでヘアデザインを担当した加茂氏は(美容業界に特別詳しくもない)ファッション業界にいる僕でも知っているくらい有名なレジェンド。






展示方法自体は比較的普通の構成だったけれど、加茂氏が作り上げたヘッドピースの数々は間近で見ると圧倒的な迫力で、まぁ、これはなんというか、ヘア云々というよりも彫刻でしかない。氏の造形のソースとなるものが数百年単位という膨大なスケールの中から抽出されたものだとすぐに理解しえた、という点で圧倒的にロマンチックな展示だった。仮に(あくまでも僕の想像の範囲内で)その時間軸を、いばらの冠~神聖ローマ帝国~パンクカルチャーまでと設定すれば、ざっと2000年。この幅の広さは尋常じゃないし、これに近未来(例えば2050年とか)を含めれば、加茂氏の想像力は正に、サディステックミカバンド的に言うところの「好きな時代に行けるわ 時間のラセンをひと飛び」という感じ。タイムマシンにお願いしなくても時間旅行者=加茂克也が僕らに見せてくれる(た)タイムトラベル=ファッションが本来持っていたはずのダイナミズム。言語的には「ファッション」=「流行」なので、もちろん「現在(いま)」を象徴する概念なんだけど、ただ、「現在(いま)」という概念は脈絡もなく突然変異的に産まれたわけでなく、結局は母があってはじめて誕生するものでしかない。ここでいう母体とはすなわち「過去」を意味する。

作品本体よりも、壁に映るシルエットを見ただけで時代時代の多様性、すなわち時代によって人類が如何にして装いを変えてきたのかという変遷を垣間見ることができる。

悠久たるそれらの流れが「現在(いま)」というピンポイントに着地したとき、それはまるで限りなく無限に近い有限がポツリと1点に落っこちてきたような感覚。(汚い言葉を使うならば、恒久の大空を羽ばたく鳩の糞がいま正に自分の頭に命中したときのような)「え、こんなことってある?」という、違和感や必然性や戸惑いや怒りや喜びと共にやってくる、あの感じに繋がるのだろうね。


今回の展示で象徴的だったのは、美(それはステレオタイプや単なるファンタジーが意味する、それではない)を追求する過程で残された傷跡=アトリエの様子を会場内に再現していた点。つまり、膨大な人類の歴史から逃げ出すことなく、連綿と続く過去に正面から相対する姿勢の結果生まれたゴミのような、つまり手作りの、コギタネー風景。
ヘッドピースとは別に展示されていた、加茂氏が製作したらしきオブジェの数々からは、僕も大好きなHouse of beauty and cultureの匂いがした。ゴミを集めて美に繋げる。悲しみの彼方に喜びを見出だす。言い換えれば、飽和の中で創造を見失ってどーすんだよ?この後にやってくる時代は飽和の先にしかない。他人(=先人)のせいにすんな。悲しむな!むしろ作るということを喜べ!それはすなわち、お前これ以上作るなよ!と他人を攻撃するくらいなら、つまんねーもの作る奴が自信を無くすくらい素晴らしいものをお前が作れ!と言っているような気がした。
気のせいか?しかし、ね。
どーしたって過去からは逃れられないんだよ。ガッカリしてる場合じゃ、ねー。受け入れた上で、自分を生かすのか殺すのかもお前自身が決めろ。ってことなのかもね。
「KAMO HEAD ‐加茂克也展 KATSUYA KAMO WORKS 1996-2020‐」は表参道ヒルズにて2023年4月2日まで。














