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STORY

狙ってないのに、結果的に神様になった写真家 Eugene Atget

生前、有言実行で神の領域にまで達した画家や写真家、ファッションデザイナーやスポーツ選手等々って本当にすごいと思うんです。オーディエンスに凝視されながら怯まず好成績を出し続けるとか、誰がなんと言おうと自分の道を貫きながらもしっかりファン心理も理解していてビジネス的にも成功できる人とか。地位と名誉とマネーを手にした生き神様とでも申しましょうか?
野球のイチロー選手なんてこれに該当するんでしょうね。引退会見で『ほかに質問は?』なんて言えるプレイヤーはやはり神の所業でしょう。得意じゃないけど・・・。
はい、本題です。そんな生き神様イチロー選手の真逆をいく現代写真家の父と言わしめる写真家がおりまして名前はウジェーヌ・アジェと申します。波乱万丈と言うか謎すぎる経歴は各自ウィキっていただければと思いますが、アジェの凄いところは狙ってないのに神に祭り上げられた作家であることなんですよね。死後に神様パターンって有名なところで我らがヴィンセント・ファン・ゴッホがいらっしゃいますよね。生前売れた絵は1枚伝説は目頭が熱くなります。子供の様なピュアなインスピレーションが宇宙から降ってきて選ばれしゴッホの頭上の見えない王冠から絵筆を動かしていた・・・これは映画『バスキア』の冒頭のシーンです。このゴッホの人生の内容を言い当てているのがRCサクセション初期の名曲『わかってもらえるさ』。
「いずれボクの創作はわかってもらえる、もうすぐなんだ・・」こんな悲痛の叫びをおくびにも出さず、画業に没頭できれば時代が後からついてくる、、幸せな結果が来るとわかっていればいくらでも頑張れますが、描けども描けども評価されない中での生み続けるパワーは生半可ではなかったはずです。そんなサイドストーリーがあるからゴッホの人気は世界的なのでしょう。
では写真家アジェはと言うと、これが極めてレアケースなんです。活動時期は19世紀末〜1920年代あたりでパリとその近郊を三脚を立てて大判カメラでバシャバシャ撮っておりました。
アジェ自身、自分を写真家と思っていたかは定かではありませんが、この撮った写真は今で言うストックフォトの様な扱いで広告代理店や目が不自由になった画家、パース図形の参考にしたい建築家などに売っていたんです。ユトリロやドガは写真を見ながら風景やバレリーナを描いていたのは有名ですよね。コルビジェも使っていたそうですし。そんな彼らの元ネタがアジェフォトだった訳です。なのでアジェの写真には決定的な撮影者の見つめる先が無いと言われてるんです。画角全てにピントが合っている、絞りまくった写真これを後の時代ではストレートフォトと呼ぶ様になります。ただ目の前の事実を伝えるだけの写真。クローズアップ感がない不気味さ。その事実に何かを加えて作品にするのはアジェから写真を買ったお客さんたちな訳ですから。素材が喋りすぎてはいけません。
はい、そんな写真素材販売アジェの作品に並々ならぬ先見性を見出した1人の女性がおりました。シュルレアリスト写真家、マン レイのアシスタントだったベレニス・アボットと申しまして、彼女自身も壮絶に素敵なポートレイトを撮ったり、全ピントのストレートフォトの大家として30年代のニューヨークの街並みなんかを作品におさめた女流カメラマン。
そんなシュルレアリスト脳の彼女は20年代のアジェ写真から感じ取ってしまったんです。狙ってないのに時代の先を行きすぎたパワーを。なので彼女は自費でパリ中に散らばっていたアジェ作品のキュレーションをし、買い上げ、それを母国アメリカのMOMA美術館にその管理を委ねたんです。下の写真集は1964年に出版されたアボット編纂の176枚を最初にまとめた写真集の初版。その横はアボット撮影の有名な1枚でアジェが亡くなる3ヶ月前のポートレイトと言われております。
有言実行な野球神イチロー選手から、写真芸術なんて全く意識していないのに神になったアジェ。やっぱりボクはアジェ派だなー。
Manabu Kobayashi

Slowgun & Co President小林 学

1966年湘南・鵠沼生まれ。県立鎌倉高校卒業後、文化服装学院アパレルデザイン科入学。3年間ファッションの基礎を学ぶ。88年、卒業と同時にフランスへ遊学。パリとニースで古着と骨董、最新モードの試着に明け暮れる。今思えばこの91年までの3年間の体験がその後の人生を決定づけた。気の向くままに自分を知る人もほぼいない環境の中で趣味の世界に没頭できた事は大きかった。帰国後、南仏カルカッソンヌに本社のあるデニム、カジュアルウェアメーカーの企画として5年間活動。ヨーロッパでは日本製デニムの評価が高く、このジャンルであれば世界と互角に戦える事を痛感した。そこでデザイナーの職を辞して岡山の最新鋭の設備を持つデニム工場に就職。そこで3年間リアルな物作りを学ぶ。ここで古着全般の造詣に工場目線がプラスされた。岡山時代の後半は営業となって幾多のブランドのデニム企画生産に携わった。中でも97年ジルサンダーからの依頼でデニムを作り高い評価を得た。そして98年、満を持して自己のブランド「Slowgun & Co(スロウガン) / http://slowgun.jp 」をスタート。代官山の6畳4畳半のアパートから始まった。懐かしくて新しいを基本コンセプトに映画、音楽等のサブカルチャーとファッションをミックスした着心地の良いカジュアルウェアを提案し続け、現在は恵比寿に事務所を兼ね備えた直営店White*Slowgunがある。趣味は旅と食と買い物。