僕は「派手な人」だと思われやすい。たしかに地味ではないと自覚はしているけれど、そんなに派手かな?そもそも「地味&派手」なんて相対的な話だろうし、そりゃ周りが紺、カーキ、グレー、無地、Tシャツ、短パン、スニーカー…となっていけばいくほど、僕は「より派手な人」に見えるだろう。でも、よーく見てください。僕が着ているそれぞれのアイテムは(色・柄が多少派手だとしても)「昔からフツーにあるもの=ベーシックアイテム」が大半だし、超絶変態デザインが施してある洋服は滅多に(ひと月に1、2回?しか)着ない。じゃあ、単純に着方(組み合わせ)が悪いんだろうね…。
色・柄の組み合わせ。洋服のコーディネートがその要素だけで成り立っているわけでないことは十分知っているんだけど、僕はやっぱり色・柄の組み合わせにこそ愉しみを覚えてしまうようだ。「自分の色彩感覚のルーツがどこにあるか」なんてことはあまり考えたことがないし、いろんな因果が混ざりすぎて今ではきっと特定することも難しいだろう。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
「いろは歌」は七五調を4回繰り返す今様(いまよう)という形式の中で、47すべての仮名文字を重複させずに一回ずつ使うという驚くべきテキスト力が組み込まれている作者不詳の歌である。そういえば僕はもう随分と長い間、過ぎ去ったいつかの日と重複するコーディネートをしていない。繰り返しの毎日を、日々新しく生きたいと願っているのだろうか。それとも、無意識のうちに自分を縛り上げているだけなのだろうか?
古来より日本人に親しまれているこの歌は、決して文字遊びの為だけに酔狂で作られたものではなく、ミニマルな47文字にきっちりと仏教の概念が盛り込んである意味でも驚くべき完成度を誇っている。
「色は匂へど 散りぬるを=香り豊かで色鮮やかに咲き誇る花も、いずれは散ってしまう」「我が世誰ぞ 常ならむ=この世に生きる誰しもが、永遠ではない」「有為の奥山 今日越えて=無常の迷い、その奥山を今乗り越えていけば」「浅き夢見じ 酔ひもせず=儚い夢を見ることなく、仮想の世界に酔うこともない悟りの心境に達することができるのに」
43歳にして、まだ奥山の深くで迷い続けている僕は、いつか悟りの心境に達することが出来るのだろうか?うろうろと彷徨う薄暗い山道の中で、鮮やかな色だけが僕の目印になってくれている。たとえそれがファッションという名の、常ならむ光だとしても。














