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馴染みのバーアキのBAR

僕にとって「馴染みのバー」というほど行きつけている場所は特にないのですが、思い入れの強いバーはあります。
2016年にヘルシンキへ旅したときの話です。僕は(海外出張など)仕事で旅する機会が今のところ無いので、すべて個人旅行ということになります。旅は行き当たりばったり、予定外のハプニングが醍醐味だと思っているので、普段は旅行に目的(や目的地)をそれほど強く設定しません。ただ、この旅にはふたつの目的がありました。ひとつは「フィンランドが誇る建築家/デザイナー、 Alvar Aalto の自邸を見てみたい」というもの。もうひとつは…。
アキ カウリスマキという映画監督がいます。カンヌを制したこともあるのでご存知の方も多いですね。彼は大酒飲みのロックンローラーみたいな風情でありながら、小津安二郎を敬愛するという、ちょっと変わったフィンランド人。彼の兄ミカも映画人です。アキの映画にはいつもお決まりのキャストが登場します。このあたりも「小津的」です。お世辞にも決して美人とは言えないヒロイン、オッティ カウティネンが、小津映画でいうところの原節子…?
そのアキとミカの兄弟が経営するバーがヘルシンキに2軒あるというのです。彼の作る映画が大好きな僕は、勿論訪れてみたくなりました。隣接する2つのバーは「コロナ」「モスクワ」という名前で、市街地の中心部にあります。ヘルシンキは小さい町ですから、僕のホテルから徒歩5分程度で行ける立地。スケジュールが合わず「モスクワ」には行けず終いでしたが、「コロナ」にはヘルシンキ滞在中に2度足を運びました。
ビリヤード台が4つほど用意された、そのバーではカウリスマキ映画に今にも登場してきそうな、楽しげで悲しげなお客がわらわらと酒を飲んでいます。彼らと同様にカウリスマキ作品は悲しいコメディのようです。彼の映画の大半は「絶望8:笑い1:希望1」で出来ています。薄暗い空間の奥には、一枚の額装されたポートレイトが飾ってありました。彼の名はマッティ ペロンパー。「ラヴィ・ド・ボエーム」で貧乏画家を「パラダイスの夕暮れ」で清掃局職員を、そしてレニングラードカウボーイズのマネージャー役を演じた、毛虫のような口髭がトレードマークの俳優。カウリスマキ映画の初期~中期作品での常連キャストでありながら、44歳で急遽した彼のポートレイトを眺めながら過ごした二晩。
アキの盟友、ジム ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」では、ヘルシンキのタクシー運転手を演じていたマッティ ペロンパー。その瞳に映る悲しげな光を想ううちに、突然、自分はもしかすると人生の暗さを本当の意味では、まだ知らないのではないかという気持ちになりました。それはつまり、明るさもまた知らないのだということ。僕はグラスを片手に、まるでモナリザでも見るような気持ちで毛虫髭の男の肖像をいつまでも見つめていました。