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馴染みのバー冬のミステリー『BAR お一人様』

『ここだな・・・。』
細い急な階段を下りきると、小さな船舶照明と共にアーチ型の扉がある。そっと手をかけてみると、そのマホガニーの古風な扉は予感に反して音もなく、すーっと開いた。薄暗い店内には客は数名。流石に初めて訪れる BAR って奴は飲み歩いている俺ですら緊張する。目の合ったバーテンダーは軽く会釈し、おまえの席はここだ、と言わんばかりにその視線を先に向けた。俺は指示に従い席に着く。 BGM はミンガスの「 Ah Um 」が極めて心地よい音量で、さほど広くない店内を包み込んでいる・・・。この店は俺の変わり者の友人、Aの紹介だった。必ず行くときは1人でな、それが奴からの忠告。とくに理由なぞ言わない。ただニヤリと口元を上げるだけだった。ウム確かに悪くない店だ。椅子の高さからカウンターの奥行き感、照明の暗さまで俺好みだった。指示された席とは、バーテンダーを囲むように大きなコの字型のカウンターの入り口から一番遠い場所だった。バーテンダーを挟んで入り口側にはどうやら初老の紳士が陣取っている。俺はウィスキーのダブルをロックで注文した。バーテンダーは無言で頷き、手際良く差し出してきた。おお!なんと綺麗な丸氷。それは昔ながらの手法で、ピック1本での削り出しであることがその表面の無数の傷跡から解った。しばらくすると、反対側の紳士と目が合った。しかし、彼はすぐにその視線をそらしてしまう。小指にはやたらと光るリングが見える。カルチェのヌーベルバーク程のボリュームはあるな。なんだ、俺が昔持っていた物と同じじゃないか。そして暗さに目が慣れてくると周りの状況が徐々にわかってきた。成る程、この音の暖かみはマッキントッシュの真空管APと大型冷蔵庫のようなタンノイSPの組合わせだからだな、としばし納得した。
おや、紳士がまたこちらを見ている。白髪まじりの口ひげから垣間見える唇が何かを繰り返し語っている・・・。『◯クア△ ト◯△チ・・・。』その口元を注視すればする程、バーテンダーの背中がそれを邪魔する。チェッ!俺はやや苛立ちながら天井を見上げた。喫煙が出来た時代の名残であろう、 JAZZ GIANTS 達のポスターが海賊の古地図の様なグラデーションとなり、無秩序にひしめき合っている。その中のすすけたマイルス・デイヴィスと俺は目が合った。
ゆっくり顔を戻すと、おや、正面の紳士がいない。いつの間に帰ったのだろう?まあいい、俺もそろそろ退散するかな。少し疲れたみたいだ。俺はカウンターに飲み代を置くとマホガニーの扉を押した。「ギュッーッ!」さっきとは逆に蝶番の奥底から悲鳴の様な音が闇夜を切り裂いた。流石はAの薦める店だ。最後の最後までビックリさせやがる・・・。
数日後、俺の足はあの店に向かっていた。気に入った、と言うより気になっていたのだった。前回の様に階段を下り扉を押すと「ギュッーッ!」おやおや今夜は機嫌が悪いようだ。そして中に入った俺は唖然とした。何かが違う。そう、バーカウンターが真一文字になっているではないか。俺はバーテンダーに話しかけた。『こんばんは。内装、変わった?』バーテンダーはまたしても無言で席を指し示した。それも前回と同じ様な一番奥の席を・・・。
『うちは戦後70年間、このまんまですよ。カウンターもこの背面の大鏡もね。』実はこれが初めてバーテンダーが口を開いた瞬間だった。まぁ、想像通りの夜の男の声だなと思った。
鏡?俺は思いを巡らしながらゆっくり正面を見た。いた。確かにここにいる。あの時の初老の紳士がここに・・・。全てを見透かした様な神々しい顔で「俺」が俺を見ているのだ。何なんだ!全く状況が掴めない。俺は呆れて天を仰ぎ見たんだ。するとすすけたマイルスは今夜も俺を睨みつけていやがった。やはりこの店、この席で間違いが無い・・・。あの夜は何だったんだ??俺は軽めのキールを飲み干すと早々に店を出た。少し冷静になる為に師走の夜風にあたりたかったのだ・・・。あっ、そういえば・・・『◯クア△ ト◯△チ・・・。』『◯クア△ ト◯△チ・・・。』
『アクア△ トレ△チ・・・。』『アクアス トレンチ !!!。』あの時の初老の俺はきっとこう言っていたのだ。
自宅に着いた俺はウォーキング・クローゼットの奥からアクアスキュータムのトレンチコートを引っぱり出した。時代を越えた名品「 KINGSWAY 」の60年代物を以前ロンドンのポートベローで運よくデッドで発見、大切にしていたのだ。主に春先に出番の多いこのトレンチ、確か5月に着たのを最後にそのままになっていた。『まさか!』俺は恐る恐る胸の内ポケットを外側と内側同時に拝むようにさわってみた。
「ゴロッ・・。」更にポケットの中へ手を入れると冷やっとした感触と共に紛失していたカルティエのリング、ヌーベルバーグが姿を現した・・・。なかば諦めかけていた白金の塊。
これは俺から俺への何かのご褒美なのか・・・?俺はサンタであり、お年玉をくれる伯父さんであり、そのプレゼントを待つ子供でもあった訳か?じゃあAは幸せを運ぶ宅配便のお兄さんってことか??半年ぶりに生還したリングをかつての定位置、左手小指にはめて思った。
「まったく・・・。」
夜の BAR には不思議な事が多すぎる・・・。