傘は持っていたり、いなかったり。
体は濡れたり、濡れなかったり。
その晩、最寄り駅前で雨に降られながら見上げた街灯の光が無性に美しく思えたのでスマホで何気なく撮ってみたら、そこに存在しないはずの光の輪が写り込んでいた。雨粒はクレーターさながら、その輪っかはまるで月のような姿をしていた。
傘を持っていなかった僕は存在しない月に背を向けると、さっき店で買ってきたばかりのフェイクファーを頭から被り大股で家路を急いだが、思った以上に降りしきる冷たい雨のせいで玄関のドアを開ける頃には濡れた野良犬の姿に成り果てていた。月に変わる街灯。
濡れ犬に変わる人間。
明日の朝、ベッドで目を覚ましたときに自分が巨大な毒虫に変わっていたとしても、さして驚かないような大いなる不条理の世界で、たしかな未来など何一つない。環境負荷のことを考えれば人間が生きている価値さえも確かではないけれど、だからといって自分の存在を丸ごと否定することができないのもまた、人間である。ほとんどすべての人間が吐き出す言葉は、それぞれのポジショントークにすぎない。まるで何かにすがり付くように自己表現や芸術を追いかけ、人間を求め続け、やがて土に還っていくだけなのに。その過程で莫大な副産物を生み出しながら人間はどこかへ向かって猛然と進んでいく。自然と一体化することは人類にとって未だに困難であり、それを以て「人間が生きることは悲しい」とも思える。矮小な性(さが)と渇望を抱え続けたまま「人は何にだってなれる」と呟いてみたところで、果たして人間は人間のままである。しかし、どれほど諦念にまみれながら日々を生きるのだとしても、渇望はいまだ止まず。22年勤めたビームスを僕は辞めることにした。
グレゴール・ザムザは虫に変わらなければ、そもそも何になりたかったのか。僕は、この期に及んでまだ洋服屋になろうとしている。














